東村山市は武蔵野台地上の北緯35度45分42秒、東経139度28分16秒にあり、狭山丘陵を背に東は清瀬市、東久留米市、西は東大和市、南は小平市、北は埼玉県所沢市に接し、総面積は17.17平方キロメートルとなっています。
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その歴史は古く、今から一万年以上前の先土器時代にヒトの生活が始まっています。縄文時代の遺跡が発見され出土品なども多く発掘されています。7世紀半ばから8世紀に武蔵府中(府中市)に国府が置かれ、東村山市域を貫く官道が通じていました。この官道は鎌倉時代に鎌倉街道として整備され、その要地として宿場・久米川が栄えました。また久米川は新田義貞の鎌倉攻めの際、戦塵にまみれた地としても有名になっています。江戸時代に入ると幕府直轄地としてたか狩場となり、農村は南の原野を拓き発展し、1655年(承応4年)には野火止用水が開削されています。
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1884年(明治17年)農村制度改正により、野口、回田、久米川、大岱の4組合がつくられ、1889年(明治22年)5月市町村制施行により、南秋津村を加え、方位をとって東村山村が誕生しました。
1942年(昭和17年)人口10,852人で町制を施行、現在9つの駅があるなど鉄道網が発達し、都心への交通が便利なため、都心通勤者の居住地として注目され、戸建ての住宅地が開発されるとともに都営住宅等の公的住居の建設が進められ、1964年(昭和39年)人口66,012人、東京都で13番目、全国で559番目の市として市制を施行しました。
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武蔵野の風情を残す農村地域でしたが、高度経済成長に伴う東京一極集中のもたらす都市化の波を受け住宅都市として急激に発展し、現在では人口15万人を超えるほどになりました。この間、ゴミ処理施設をはじめ、学校、図書館、公民館、スポーツセンター、児童館、ふるさと歴史館など公共施設の建設や下水道などの生活基盤の整備を行い、農村から住宅都市への発展に対応してきました。
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21世紀を迎えた現在、「緑あふれ、くらし輝く都市」を目指し、東京近郊でありながら豊かに残る自然環境を守り、身近な自然をつくり育てながら良好な住宅環境の実現と、その環境のもとで、こどもから高齢者まで市民一人ひとりが自らの能力を生かし、健やかで生きがいに満ちた輝きのあるくらしの舞台となるまちづくりを目指しています。
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